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金光布袋戲

伝統から金光へ

 台湾における布袋戲の発展が、更なる「金光(金剛)化」によって推し進められてきたという説があることは(『布袋戲の変遷』参照)で触れたとおりである。このように伝統的な布袋戲が金光に転化していく過程には四回ほどの大きな転型期があるそうだ。
第一次金光転型は日本占領時代(1895-1945)。
第二次転型は二二八事件(1947)。
第三次転型は黃俊雄の史豔文風暴時期(1960)
そして第四次転型は黃強華、黃文擇の霹靂時期(1984)である。
 この第三次の流れを受け継いだのが現在「金光系列」と言われているシリーズで、第四次はそのまま「霹靂」シリーズである。『霹靂』と現在の『金光』はその根幹が同じだ。双方の創始者は肉親関係で、遡れば同じ祖先の創造した作品に辿り着く(図1参照)。

 なお、より派手な音声や映像効果を使用する新しい転換の形としての「金光(金剛)」と、シリーズ名称としての「金光」が聊か紛らわしいが、変化の形としては『金光戲』を使用すると思われる。通常『金光』と言えば黃俊雄布袋戲の金光シリーズを指していると考えて問題ない。


金光系列の背景~黃海岱一家~

 台湾布袋戲界で「通天教主」と称される黃海岱は「五洲園人形戲團」を1918年に創立し、「五洲園一派」は台湾布袋戲界の多数を占める一大勢力となった。台湾の袋戲界の発展を語るに欠かせない人物である。(「通天教主」は「封神演義」に登場する人物で、太上老君と元始天尊の師弟) 又、黃海岱は後に布袋戲の代名詞ともなるキャラクター、雲州大儒俠『史豔文』の生みの親でもある。
 長男の黃俊卿は『內台戲霸主(戲院で上演する布袋戲の覇者)』と言われ、次男の黃俊雄は『電視布袋戲』を生み出し新たな布袋戲の流れを作ったばかりでなく、「雲州大儒俠」で史豔文というキャラクターを布袋戲界の不動の地位に据え、1984年には「黃俊雄布袋戲團」を設立した。
百年榮耀-黃海岱紀念展
写真1 黃海岱百年榮耀紀念展
出處: Wikimedia Commons (Copyright © by Adonis Chen)
黃俊卿電視木偶戲團
写真2 布袋戲の舞台(黃俊卿電視木偶戲團)
出處: Wikimedia Commons 2006年05月05日 台中國立美術館

孫の黃強華、黃文擇は父親・黃俊雄の『新雲州大儒俠』を完成させた後、自分たちの『霹靂布袋戲』を世にだし(詳細は 『霹靂布袋戲』参照)、布袋戲を世界舞台の銀幕へ押し上げた。
もう1人の孫の黃文耀(先妻の陳美霞の子で、黃文耀は黃文擇と双子。社会的な忌避の為伯父の黃俊卿に育てられた)も『天宇布袋戲』を上梓した。 黃海岱一族はまさに布袋戲界の重鎮と言える。


黃一族家系図
図1 黃一族家系図(関連人物のみ)

金光初期と史豔文の起源

 黃海岱が18世紀半ば清代の長篇小說「野叟曝言(やそうばくげん)」を改編して布袋戲の演出本としたのが始まりである。小説の内容は、文武両道・諸芸に秀でた主役・文素臣が倭寇征伐で大功をたてる荒唐無稽な話。当時は日本占領時期だった為、政府によりこのような小説は禁止されていた。黃海岱はこの小説と主役の忠義で勇敢な性格が好きだった為、その精神部分を引き継いだ新たしい主役「雲州玉聖人─史豔文」を創作。劇の名前も「忠勇孝義傳」とした。これが「史豔文」の始まりである。

 息子の黃俊卿と黃俊雄が台頭したのは1960年代初頭で、黃俊雄は1970年に「真五洲劇團」を率い「雲洲大儒俠」を上演。『雲州大儒俠』は父親・黃海岱の「忠勇孝義傳(忠孝節義傳)」を改編したものだ。ここで初めて舞台をテレビへ移し、木偶も大型サイズに変えて音楽も伝統的なものから流行音楽に替えていった。電視布袋戲の幕開けである。視聴率97%という驚異的な数字をたたき出したのはまさにこのシリーズで(全583集)、以後布袋戲といえば「史豔文」と言われるほどになったのである。

異なるバージョンの史艷文
写真3 黃俊雄布袋戲文化特展@大稻埕戲苑
左から史豔文、史豔文、苦海女神龍、藏鏡人、史豔文(異なるバージョンの史豔文)。右端は1970年版で、左端は1994年版。
 あまりにも人気があった為、1974年6月25日、国民党政府により「妨礙農工作息」(仕事や休息に悪影響を及ぼす)として放映禁止処分となってしまった。(電視布袋戲(テレビ布袋戲)とその受難 参照)
黃俊雄の史豔文は、それほどまでの人気を獲得していたが、残念ながら当時の本来の映像はもう見ることが出来ないようだ(テレビ放映のみらしい)。

(何年も前のことだが、台湾での外拍(木偶撮影)時、木偶を見たギャラリーはそのキャラが誰であろうと「史豔文」だ!と言うほど誰でも認識していたくらいである。史豔文がどれだけ浸透していたかの現れだろう。楼主の素還真でさえ史豔文と言われたことがある(笑) さすがに今は無くなったが、年齢が上の人には未だに史豔文の方が馴染みがあるようである。


金光系列

 金光系列は通称『黃俊雄布袋戲』とも言われ、黃俊雄は芸術界で最高の栄誉である「國家文藝獎」を受賞
 この金光系列、中華電視で放映した『新雲州大儒俠』の1994年の最後一集から始まり、それ以後はシリーズ名に金光の二字が用いられる。たとえば金光霹靂菩薩藏、金光十八龍等々。
黃俊雄の電視布袋戲は、「雲州大儒俠」以後、『布袋戲の変遷』で触れたように、時代の流れで低迷してしまうが、その息子達が後を引継き発展させる形で前進を続けることになる。
継続と、ちょっと内紛・・・
 黃文擇は1983年に「苦海女神龍」、「忠勇小金剛」を演出し、それ以降金光布袋戲をベースに霹靂系列に繋がっていくシリーズを世に出していく。シリーズ名は順に、七彩霹靂門、霹靂震靈霄、霹靂神兵、霹靂金榜、霹靂真象、霹靂萬象、霹靂天網、霹靂俠蹤。
早期の霹靂シリーズは黃俊雄が編集したことから、金光シリーズと重複したキャラクターが登場する。黑白郎君、獨眼龍、藏鏡人、網中人、女暴君などなど。
 ただし制作が黃文擇・黃強華兄弟に完全に移行してからは版権問題もありこれらのキャラクターは霹靂では登場しなくなった。黃俊雄は自分のキャラクター(獨眼龍等)が好まざる方向に変えられていくのが我慢ならなかったとも言われている。如何せん、親子の考え方や世界作りにおける方向性の違いが顕著に現れ出した時期である。主要キャラクターが史豔文から素還真へ変遷していく過程は、金光から霹靂が分離する過程とも言えるだろう。
黑白郎君南宮恨
写真4 黑白郎君南宮恨
出處: Wikimedia Commons (Copyright © by 黑衣) 2007年04月19日 台北華山藝文中心
 2009年にはこのような記事「黃俊雄父子反目 史豔文大戰素還真」も掲載されている。マスコミにありがちなセンセーショナルな題目であるが、何かしらの確執があったことは否めまい。
史艷文、黒白郎君、藏鏡人
写真5 黃俊雄布袋戲文化特展@大稻埕戲苑

金光の今

 霹靂が黃俊雄の金光系列から分離して広く大衆に受け入れられていく一方で、金光自身も独自の路線を保ちつつ新作を世に出している。「新雲州大儒俠」に始まり「金光霹靂菩薩藏」や「金光十八龍」など(シリーズのリストは『金光シリーズ一覧』参照)。その後もう1人の息子である黃立綱が演出を行うようになり、新たな金光時代が展開されつつある。

 現在、金光布袋戲は黃俊雄、後妻の西卿、その子供である長女の黃鳳儀と四男の黃立綱で共同運営されており、現在の団体名は『天地多媒體國際有限公司』。
 シリーズの数や市場規模の上ではまだ霹靂に到底及ばないが、最近(2014年現在)では段々とそのすそ野が広がりつつあることが実感できる。キャラクターの描込みや魅力、ストーリーの面白さなどから、日本や台湾に於いては霹靂は見ていないが金光は見ているというファンも見受けられるようになった。
資金難から継続が危ぶまれているらしいが、丁寧なストーリ作りと操偶技術の観点からも今後とも新作をどんどん出していって欲しいと思う。(もちろん品質は落とさず、CGに頼りすぎることもなしで!)。

ようそろ~ 前進中
 金光シリーズの人気が高まるにつれ、様々なイベントも開催されるようになってきた。2013年3月16日~7月28日の期間で『黃俊雄布袋戲文化特展』が台北の大稻埕戲苑で開催された。入場料無料で、撮影も自由。見学者にとっては嬉しい企画だ。2014年3月29日に關懷自閉兒公益活動で本尊の演出も実施。 又、布袋戲ONLYという2014年4月12日に開催された同人系のイベントには本尊も参加! さらに金光初のスタジオ見学も開催された。今後の発展がますます楽しみなシリーズである。
黃俊雄布袋戲文化特展
写真6 黃俊雄布袋戲文化特展@大稻埕戲苑

参考資料:
『台灣布袋戲表演藝術之美』 吳明德 著 台灣學生書局
『台灣布袋戲發展史』 陳龍廷 著 前衛
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